歴史資料ー1

  近古代史の考察 

 
 日本古代史の通説に対する昨年までに多元的古田史学により、判明してきた諸説
について、さかのぼり日本史的に、記したいと思います。

1・(600年代)阿毎多利思北孤(アメタリシホコ)の時代


最初に、中国隋(ズイ) 開皇二十年、(600年)倭王多利思北孤が隋の第二代皇帝
陽帝(ヨウダイ)に対して一回目の国書を送り、答礼として、
文林カ裴世C(ブンシンロウハイセイセイ)が国書をもって来ています。
二回目、通説では、607年隋の第二代皇帝陽帝に対して、国書の名義は、
推古女帝で聖徳太子が送ったとなっていますが、
隋書イ妥國伝(タイコクデン)では、「倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩奚隹彌、
王妻号奚隹彌、後宮有女六七百人、名太子為利歌弥多弗利。遣使詣闕。」と
なっており、字が阿毎 名を多利思北孤 吾輩奚隹彌(アハイのキミ) 
大子が利カミトウの利 妻は奚隹彌(キミ)と言い、聖徳太子とは書いていない。
第一主権者が推古女帝で、男と女の違いと妻がいる、第二主権者の聖徳太子と
利歌弥多弗利の名前が違う。
この国書は、日出る所の天子、日没する所の天子に書をする、恙なきやで有名です。
これは日本の天子と中国の天子が対等であると言う国書です。そこで
、隋の第二代皇帝、陽帝が怒り返書はしなかった。
これに対し、聖徳太子側には鴻臚寺掌客裴世清(コウロジノショウキャク)が
中国の天子の国書をもってきています。
内容は
「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘コ化
覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境?安樂 風俗融合
深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也
故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」  『日本書紀』
訳文は
「皇帝、倭王に問う。朕は、宝命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、
すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、
遠い近いの区別はない。倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、
国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、
遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕(チン)はうれしく思う。」
返書の冒頭書出しに 宝命(ホウメイ)を受け となっており、
これは初代の皇帝になる時、天帝の命により国をあずかって統治する、
と言うもので、年代的には唐初代皇帝高祖(コウソ)の書き出しです。
また、倭皇の皇とは柵封(サクホウ)された臣下に対する表現です。と言うことは、
日本書紀に書いてある通り唐(大唐)であり、607年の国書は
聖徳太子の書ではなかったと言うことです。
また、裴世清の位が文林カ(ブンシンロウ)と鴻臚寺掌客(コウロジノショウキャク)
と違うことです。
618年に隋第2代陽帝殺され,李淵の,唐王朝をになりました。
文林カとは、皇帝直属のいわゆる秘書省のようなもので正8品、
これに対し鴻臚寺掌客は今で言う外務省の役人で正9品で品が下で違うのです。
これは、隋から唐に皇帝が変わっても科挙に合格している役人については、
政変の功績によって、位の上がる人、下がる人、殺される人がいるそうです。
よって、この場合隋から唐に変わり位が下がったと思います。
この隋書、巻81列傳第46 東夷には、イ妥國伝と書いてあり、
もともとは委奴国(イドコク)で代々中国と国交があったと書いてあります。
57年に後漢の光武帝から受けた。漢委奴国王印これは 
カンのヰドコクオウ と読みます。委任状のヰです。
通説の、漢のワのナの国王とは読みません。なぜなら、皇帝が印を与える場合は、
一対一です。三段読みの印は中国には一つも無いのです。
そうすると匈奴と委奴の意味が良く判ってくると思います。従って委国が大きくなって
大委(タイヰ)と当時言っていました。それを隋では、イ妥国伝(タイヰ)國と漢字表記した。
これも通説では。イ妥国と書いてあっても倭国と恣意的に誤表記しています。
その場所には阿蘇山があると書いてあります。学校の教科書なんかではカットして、
決してのせません、本文にも、のせないし、教科の指導要領にも、のせないことになっている。
あれが、入ると、生徒は当然「阿蘇山は九州じゃないの。」と言い出しますからね。
そして委奴国も九州です。さて、九州(筑前、築後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、
大隅、薩摩)の名の由来は、今から約5000年前に夏王朝を開いた王が始めた制度で、
中国の天子の直括領で九人の王子をそれぞれ配置したそうです。多利思鉾が天子を
名乗った事で筑紫、豊、肥など分国して九国にしたと思われます。また、なぜ天子を
名乗ったかですが、中国の南斉を滅ぼした梁の第1代皇帝 (在位 502〜549) 。
姓名は蕭衍 (しょうえん) 。字は叔達。諡は武皇帝。廟号は高祖。
南斉の皇帝蕭氏の一族であるが,その家系は第二流。南斉の末期には
一地方長官であったが,挙兵して成功,皇帝の位につき,梁王朝を建てた。
また508年天監の改革の断行などにより委国との交流が途絶え
517年に南斉の臣下であった委国も天子を立てて独立し、
年号も南斉を継ぐと言う、継体として九州年号を建元した。
その後589年隋が陳を滅ぼし南朝が完全に滅び隋、唐以降北朝に変わり、
南朝が消滅した為に、委奴国以来代々南朝の臣下であった九州王朝の日本が南朝の
天子を名乗った、ここに天子を名乗った本当の理由があります。


2・(400〜500年代)倭王武(ヰオウブ)の時代

次に、時代を遡り倭の五王のうち武について考察してみます。
武は建元元年(479)南朝済の皇帝、高から使持節(シジセツ)、
都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號爲鎮東大將軍
と授与され、自ら開府儀同三司(カイフギドウサンジ)と称していたのです。
いわゆる「倭の五王」、讃・珍・済・興・武、これいずれも「都督」を称したこと、
任命されたり、自分で称したりしていたことは、宋書倭国伝に出てきて有名です。
「使持節、都督」という形で出てきます。つまり「倭の五王」は「都督」であった。
「都督」を称していた。いいかえれば、「倭の五王」のいた場所は「都督府」と呼ばれていたわけです
開府儀同三司になることは、府をひらく事が出来る、そこで太宰府を開いた。
大宰府は九州にしかありません。そして都督とは日本全国の評督を統括する長官で、
太宰府に都府楼跡の石碑があります。そして700年までは全国に評という地名制度が
木簡により判明しており、それぞれに評督がいたのです。木簡とは、今日で言う荷札で、
奈良県からも出ています。文献的には日本書紀、天智六年の十一月に、「筑紫都督府」という
言葉が出てきます。また、大和王権(701年)以前は、国司でなく国宰の制度がありました。
さて、この時代すでに新羅年号(建元元年536年〜太和4年)や百済に年号があった
ことが知られています。日本の場合にも、継体(517年)から大化(700年)まで、183年間、
年号が連続しております。通説では、無年号だと言われていますが、これらを九州年号と言い、
近畿王権は701年より大宝と言う年号での改元の詔勅がだされ、以後平成まで連続しています。
517年と言うと委王武の時代です。都督と開府儀同三司になったことにより太宰府を開き、
全国に国宰(コクソウ)と評制をしくために他国にならって、この時代年号の建元がなされたと思われます。
これらの年号は、各書物、金石文、刀剣などに散見されます。
通説では、この委王武のことを雄略天皇(456〜469)にあてていますが、
その根拠は和名の、大泊瀬幼武(オホハツセワカタケ)の第五字(最終字)「武」をとった。
それでは、他の4王の通説はどうか。
(1) 讃 ーー 去来穂別イサホワケ(履中天皇)の第二音「サ」を。
(2) 珍 ーー 瑞歯別ミズハワケ(反正天皇)の第一字「瑞」を中国側が
まちがえて「珍」と書いてしまった。
(3) 済 ーー 雄朝津間稚子ヲアサツマノワクコ(允恭天皇)の第三字「津」
を中国側でまちがえて「済」と書いてしまった。
(4) 興 ーー a 穴穂アナホ (安康天皇)がまちがえられて「興」と記せられた。
        b 「穂」を「興」(ホン)とあやまった。〈新井白石〉

これらは
(一) 天皇名の第一字を、第二音を、第三字を、第五字をとったり、
  全体としてあまりにも、統一もルールもない。
(二)「字」そのものをとったり、「音」をとったり、
  この点にも一定するところがない。
(三) 右のように恣意的な手法を二種類も駆使してもなお足りず、
  「瑞→珍」「津→済」といった誤写説へと走っている。
  このように中国皇帝にたいする国書の署名と言うものをまるで無視しているとみます。
  天監元年(502年) 梁の武帝から委王武への授号があり、この時期、雄略天皇はすでに死んでいない。
  これらも九州王朝の大王とみられます。


3・(200年代)卑弥呼の時代

また、時代を遡り魏(220年〜262年)の時代、卑弥呼のいた場所が魏の三国志、
魏書巻30烏丸鮮卑東夷伝倭人の条に正確に記載されています。
郡から耶馬壱国まで1万2千里と書いてあります。ここに辿ってみましよう。
※  魏西晋朝は1里75m前後    ※  周漢東晋以降は1里435m前後
1・帯方郡治から〜韓国まで水行した後上陸し、
韓国の北岸狗耶韓国まで陸行して計7000里   ※ 方とは4角形で(面積)1辺の長さです。
2・初めて海を渡り対海国(対馬)まで水行し      1000里
3・対海国(対馬)は、方400里と書いてあるので    800里
4・次に対海国(対馬)から一大国(壱岐)まで水行し 1000里
5・一大国(壱岐)は、方300里と書いてあるので    600里
6・次に一大国(壱岐)から松浦国まで水行し     1000里
7・松浦国から伊都国まで陸行し            500里
8・伊都国から不彌国まで陸行し            100里
              計1万2千里(水行10日陸行1月)
 不彌国に接した南に耶馬壱国があると記載されています。
このように九州の博多湾岸に卑弥呼の国があったことがわかります。
通説では、文面通り読まずに、古代史の専門家が近畿の奈良(京大)だとか九州築後の
山門(東大)だとか、また自分の行きたい所にする為、東を南へ、1月を1日にと変更していますが、
変更せずと文面どうりです。また、どの時代の三国志写本も耶馬壱国と書いてあるものを
ヤマトと読みたい為に耶馬台国と変更しています。
そして、帯方郡治から〜韓国の北岸狗耶韓国まで水行した、としていますが、
魏書巻30烏丸鮮卑東夷伝韓国条には、韓国は、方4000里と書いてあり、
そうすると帯方郡治から〜韓国の北岸狗耶韓国まで全水行するとこの区間が7000里以上になってしまいます。
考古物による場所では
弥生時代の日本列島において、絹織物の先進地域が北部九州(博多湾岸や佐賀県吉野ヶ里)
であることは著名です。三国志倭人伝では中国からの下賜品や倭国からの献上品に絹織物が多数
記されています。たとえば「紺地句文錦」「白絹」などで、これら中国絹が出土した弥生遺跡は
福岡県の須久岡本遺跡ですし、倭国産の絹の出土も福岡県と佐賀県だけです。
近畿の弥生遺跡からは出土していません。
倭人伝に記された倭国の様々な文物(鉄器・銅矛などの青銅器鋳型・弥生時代の銅鏡・他)の出土は、
北部九州・糸島博多湾岸を中心とした分布を示しています。考古学が学問であり科学であるのならば、
「考古学的にも邪馬壱国は博多湾岸で決まり」と言うほかないはずなのです。
また、古事記、日本書紀には卑弥呼と言う人物は存在しません。しかし隣国の魏、晋朝そして、
新羅本記にも卑弥呼と言う名前がでてきます。これは何を意味するか考えてみてください。


4・(100年代以前)委奴国王の時代

 1) 後漢書(398年〜445年代成立)著者范曄によると、
    建武中元2年(57年)委奴国王が奉貢朝賀し後漢の光武帝が金印
   (漢委奴国王印)(カンノイドコクオウの授与する。
 2)論衝(57年~100年代成立)著者王充によると、
   周成王のとき越常(ベトナム)雉を献じ
倭人暢草(チョウソウ=香草)を貢す。
   紀元前1000ごろ、初代周の武帝が滅ぼした殷の高官の箕子(キシ)
を朝鮮に封じ、それにより倭国の品物が第二代皇帝成王に届けられた。
 3)礼記(周〜漢代成立)著者載聖によると、
   周公を祀に天子の礼楽をする、昧は東夷の楽なり(筑紫舞が該当)
                   4)山海経(禹〜秦〜漢代成立)によると、
   蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り倭は燕に属す。
蓋国とは箕子朝鮮です。


5・(神話時代)邇々伎の尊の降臨地

 筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に天降る、と古事記に書いてあります。
この場所は九州の宮崎県でなく、同じ九州でも筑紫の高祖連峰(タカス)に
日向山、日向峠、日向川があり、かつクシフル岳のある場初。
博多湾岸の高祖連峰の山々になります。また国歌君が代の発祥地も博多湾岸にある。
福岡県庁のある地名千代とその海岸にある千代の松原、細石(さざれいし)神社、
その辺が、いわらと言う場所で、高祖連峰にある九州でも大きい鍾乳洞の鍾乳石で
下から筍の様にせり上がるのが石筍と言い丁度岩穂のようです、また桜谷神社の祭神が
苔むすめの神。この歌は筑紫の志賀ノ島にある志賀島神社(シカシマ)で祭りの中で
古代から歌われています。と言うことは、近畿王権の歌ではなく、筑紫の君を讃えた歌です。
古今和歌集の読み人知らず、題知らずの九州王朝の歌をつい最近
平成十一年八月十三日内閣総理大臣 小渕 恵三氏が国歌として制定し使用したのです。


6.むすび

 広開土王の碑文に、倭寇(ワコウ)の記載があり、通説ではこれが倭の海賊のしわざ
、とされてきましたが 過去に日本を襲った江戸時代のロシアを露寇(ロコウ)、鎌倉時代の中国元の元寇(ゲンコウ)、
日本の朝鮮に対して襲った倭寇。これらは、時の国名の名をとったもので軍隊であり、
海賊などの呼称ではありません。朝鮮の南部に倭地があったことが文献により知られています。
この軍隊を送っていたのが委国です。663年に白村江にて百済、大委の連合軍が
唐により惨敗し筑紫の君薩夜摩(サチヤマ)が捕虜になり、筑紫が唐軍の進駐をうけ、
続いて起こった筑紫大地震により急速に九州王朝日本が衰退した。そののち701年に
至り近畿王権が誕生し、701年に唐の則天武后(ソクテンブコウ)の承認によって
近畿王権が現在に至っているのです。
新唐書によれば、倭国が日本国を侵しその名をなのると書いてありこれらの事が、
古事記、日本書紀に記載されなかった理由は当時の唐は北朝の天子です。
従って南朝の天子を名乗った九州王朝は偽の天子であり王朝なので、
全て抹殺して無かった事にして、720年前後に古事記、日本書紀が作成されたのが理由です。
 (委、倭については、特に中国南朝ではヰ、北朝ではワと発音が違うことがあり、)


(参考)九州年号
    継体 517年 〜 521年       端政 589年 〜 593年
    善記 522年 〜 525年       告貴 594年 〜 600年
    正和 526年 〜 530年       願転 601年 〜 604年
    教倒 531年 〜 535年       光元 605年 〜 610年
    僧聴 536年 〜 540年       定居 611年 〜 617年
    明要 541年 〜 551年       倭京 618年 〜 622年
    貴楽 552年 〜 553年       仁王 623年 〜 634年
    法清 554年 〜 557年       僧要 635年 〜 639年
    兄弟 558年 〜 558年       命長 640年 〜 646年
    蔵和 559年 〜 563年       常色 647年 〜 651年
    師安 564年 〜 564年       白雉 652年 〜 660年
    和僧 565年 〜 569年       白鳳 661年 〜 683年
    金光 570年 〜 575年       朱雀 684年 〜 685年
    賢称 576年 〜 580年       朱鳥 686年 〜 694年
    鏡党 581年 〜 584年       大化 695年 〜 700年
    勝照 585年 〜 588年        大宝(近畿年号) 701年
以降平成まで。
古代逸年号が使用されている文献は、「古代逸年号」目録で参照してみてください。
「古代逸年号」目録 (瀬戸市 林研心)
  と言うことで近畿天皇家は701年以降1300年余、日本の主権者となりました。
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